2012年9月19日水曜日

模索② 青春編【国語担当】


数ちゃんの幼少時代は意外だったなぁ~。
野山を駆け回るイメージなかったから。
さて、前回の続き…地元では名高い歴史ある進学校…A女子高校。
私の父は、兄弟姉妹8人全員、女子はA女子、男子はA高校出身。
むろん、いとこ達も!親族が集まる場ではそれぞれの校歌を合唱する
習わし(汗…)があり、A女子校に入学することは、私の最初の
ミッションでもあったのだ。そのミッションをなんとかクリアして
入学したA女子校は、「パプリカ」をはじめとして、「れんこん」やら
「マッシュルーム」やら「パセリ」やら、田舎では見たことのないような
面子揃い。そこで数ちゃんにも出会った。数ちゃんは野菜に例えると
「冬瓜」(形じゃないよ!中味…白くて、やわらかくて美味!大好き!)
部活には入部したものの、高1の夏に母親代わりの祖母が
倒れて入院してからは、看病や家事手伝いもあり、退部。
勉強にも身が入らず、これといった将来の目標も見出せないまま、
大学受験に挑み、失敗↓。すっかり途方に暮れて自宅に引きこもっていた。
そこに小6の時、あの家庭学習グラフを考案した担任のY先生が
ひょっこり訪ねてきた。どうしたものか思案している、と
相談すると、「人生は長い。1年くらい自分の力を試す為に多少
遠回りしても、いいんじゃないか。あの頃みたいに夢中で
勉強してみたらどうだ…」と。その言葉に突き動かされるように、
私は父に泣きながら「東京で、一人で、浪人したい」と告げた。
当時、女子が、東京で下宿し予備校に通う(浪人する)などということは、
今でいえば、サッカー教室に通っている娘が単身ブラジルに武者修行に
行くようなもので(ニュアンスわかる?)大変なことだったのだ。
数日後、しぶしぶ了承した父とともに、軽トラックに勉強机だけ乗せて、
上京した。半身不随の祖母が、店の前でいつまでも手を振る姿が、
軽トラックのサイドミラーに映り、涙が溢れて止まらなかった。
忘れもしない19823月のことだ。
そして、1年後、無事入学した大学の面々は、「ゴーヤ」や「空心菜」
「ズッキーニ」など、今まで見たことも聞いたこともないような
野菜だらけだった…。

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