2011年9月28日水曜日

「けなす文化」【国語担当】

日本人はお互いけなし合って生きているように思います。
良い意味でも悪い意味でも…。
例えば、アメリカ人は我が子を褒めて褒めちぎって勉強させ、
日本人はけなして、その悔しさをバネに勉強させる。
かくいう私も、「なぜ満点とれなかったんだ?お前なら
もっと良い成績とれるはずだ。お前が娘かと思うと
がっかりだ・・・。」などと、けなされ、比較され
叱咤激励されて、育ってきました。
親子関係ばかりではなく、人間関係全てにおいても。
問題を問う方も、問われる方も非難が当然の文化です。
また、日本では、人前で褒めると妬まれたり、
足を引っ張られたりすると考える節があり、
褒めにくい文化が根付いているとも言われます。
「渡る世間は鬼ばかり」…鬼親・鬼嫁・鬼先輩。
怖い・怖い!けなされるのが当たり前で、褒められることに
慣れていない。「ほめ殺し」という言葉が存在したりする始末。
しかし、その昔、人を褒めて前向きの姿勢を生み出すという
プラス志向の考え方を提唱した有名な格言がありました。
太平洋戦争の日本を代表する提督…山本五十六の言葉です。
「やってみせ 言って聞かせて させてみせ
 褒めてやらねば 人は動かじ」
褒めることから人間関係を構築させる。
「注意→フォロー」ではなく、「褒める→注意」の方が、
人は気持ちよく動くのではないでしょうか?
最近、政治のニュースを見ていても、つくづく感じます。
非難ばかりで進まない!きっと被災地の人たちは切実に
感じていると思います。
「非難よりは理解を!愚痴よりは建設を!」
会議室でけなし合ってばかりいないで、褒めて受け入れ
に進もうよ(進ませようよ)!

2011年9月24日土曜日

志望校の決め方【数学担当】

市進学院の中3進学説明会に、国語担当と二人で行ってきました。
昨年度より変更になった公立高校の入試システムについての話など、
興味深いものがありました。
その中でも話の中心は、志望校決定と併願作戦でした。
詳細については割愛するとして、私からぜひともお願いしたいことがあります。
それは、「自分が進学してもいいと思う学校を受験すること」
そして「受験する学校については、保護者は子供にネガティブな発言をしないこと」
ということです。

息子が中学受験だった時、当然安全校を併願校として入れるわけですが
塾の先生は
「この学校なら、お前たちなら10問ケアレスしても合格する」
「このクラスから、過去十年一人も不合格者は出ていない」
「お前たちはこんな学校に行くために、今まで勉強して来たのか」
「過去問なんて1年分やれば十分」
「この入試は模試だから、先生は当日朝の応援には行かないぞ」
などなど…
先生は、本命校へ一気に走らせようと鼓舞していたのでしょう。

そして私も
「もっと頑張らなくちゃ〇〇校(安全校)になっちゃうよ」
「そこは、君が行く学校じゃないでしょう」
と、言っていました。

受験が終了しふたを開けてみたら
進学先はその安全校でした。本命は全て不合格でした。
入学説明会の時、息子はずっと下を向いていました。
制服を作りに行った時も、始終不機嫌な顔をしていました。

今となれば、親子ともに進学した先の学校が大好きになっています。
ご縁があって通うことになったのだと感謝しています。
けれども、気持ちが前向きになるまでしばらく時間がかかりました。

今まで志望校の話を保護者の方から聞くと
少なからず子供にネガティブな印象を与えているケースが見受けられます。
どうぞ、我家のようなことになりませんよう
本当に進学することになるかも、ということを前提に
ご家庭ではお話をしてください。

2011年9月21日水曜日

「日本の文化③…童謡」【国語担当】

今まで、日本の文化について、固い話をしてきましたが、
文化=生活。で、今回は「童謡」について。

私は、高度成長期と言われる、1970年代、福島の
ド(これ、重要!)田舎の小学生でした。
小学校では、毎朝「今月の歌」を歌うのが日課でした。
今でも、耳に残っていて懐かしく思い出される歌が
5月になると決まって歌った「夏は来ぬ」です。

1960年代生まれの皆さま…さあ、歌いましょう♪
『①卯の花の匂う 垣根に ほととぎす 早も来鳴きて
 忍び音もらす 夏は来ぬ
②五月雨の 注ぐ山田に 早乙女が 裳裾濡らして
玉苗植うる 夏は来ぬ
③橘の薫る 軒端(のきば)の 窓近く 蛍飛び交い
おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ
 ④⑤略』

作詞は、国文学者であり歌人でもある、佐々木信綱氏。
当時は、国が識者を動員して、国の将来を担う子どもたちの
ために歌を創っていたのだそうです。
「この夏の風景を見てごらん、生きとし生けるものすべてが
溌剌と輝いている。この美しさが日本だ。この美しさを
日本人は万葉の昔から大切にし、文化としてきた。
夏の風物から美を教えてもらい、その恩返しに美を讃えてきた…
歌に歌ったり、絵に描いたり、詩に書いたりして…。
その伝統を、文化をしっかり受け継ぎ、後世に伝えていかなければ
ならない。それが、君たちの使命だ。だから怠ってはいけない。
怠け心が起きそうになったら、農家の人たちの苦労や昔の
人たちの努力を思い出して、反省しなさいよ」…って意図だって
知ってました?深い…ものすごく深かった…。
私は「卯の花の匂う垣根に ほととぎす早起き鳴きて
   忍びて漏らす 夏は来ぬ」と大声で歌っておりました。
(私解釈:卯の花の匂いがする庭の垣根に、早起きのほととぎすが
    やってきて、そっとお漏らしをする夏が来たよ!)
佐々木様…浅はか過ぎました。ごめんなさい(ペコリ…)
しかも「夏は来ぬ」は文語で、文法的にもかなり深い…
(入試問題で何度か見たことがあります!)
…深過ぎました…。

2011年9月17日土曜日

書くことにより得られるもの【数学担当】

今年度は、子供たちの学校のボランティアをしています。
今はインターネットの発展のおかげで、わざわざ学校まで出向かなくても
自宅からPCでやりとりをすれば済んでしまうことが多くなりました。
必然的に文章を書く機会も多くなり…。

直接会って話をする場合は、同じ言葉でも
そのニュアンスを表情から受け取ることができますが
文章だけだと相手の取りようによっては、誤解が生じることもあります。
真面目に取り組まなければいけない話だと、その傾向は顕著です。

自分の思っていることを、正確に伝えているか。
何度も読み返して、書き換えているうちに
自分の頭の中にあった、ぼんやりしていたものがはっきりしてきます。
迷いがあっても、方向性が固まってきます。
文章を書くということによってこんな効果があることを今さらながら気づきました。

悩んでいること、むしゃくしゃすること、
そういうことも文章に一度落としておくと、その思いから解き放たれる
ということにも気がつきました。
自分が何に対してイライラしているのか、何が嫌なのか、
書いたところで何の結論もでませんが、気分は救われました。

受験生は、今から志望校を決めるのに、あれこれ悩むでしょう。
保護者の方たちは、心配やら思う通りに進まないイライラがあるでしょう。
別に誰に見せるわけでもないのですから、自由に書いてみませんか。
何かの糸口がそこで見つかったら、ラッキーです。

2011年9月14日水曜日

「日本の文化」【国語担当】

  前回の数学の「最大値・最小値」論点の違いを読んで。 いかにも日本らしい…これまた「日本の文化」ではあるまいか。
欧米諸国であれば、ナンセンスなお話。
しかしながら、日本では、よくあるお話。国語では…
「分節の数を答えなさい」という問題。5個だったら、答えは「五」。
親切な出題者は「漢数字で答えなさい」と書いてくれる。
が、裏を返せば、「5」では、絶対「×」ってこと。
ここで、「漢数字で」と書かれていなかったら、どうか?
5」でも「V」でも、出題者と回答者の答えは、内容的には
同じ。しかしながら、国語だから、漢数字で書くのが常識…
と言われれば×。っていうか、実際、かなりの確率で言われる!
「フリガナ」と書いてあったら、カタカナで書く。
「ふりがな」と書いてあったら、ひらがなで書く。
「ソナえる」→カタカナを漢字に直しなさいという問題で
「備える」と記入すると×。「備」しか書いてはいけない。
まあ、考えようによっては理不尽な×です。
社会も、固有名詞は漢字で書くのが必須。
正確さを第一と考える国民性からでしょうか。
で、理不尽な「×」を付けられた数々の経験から(?)、
私的には、かなり「こだわり」ます。
例えば、銀行口座の申し込み用紙…氏名にフリガナと
書いてあれば、必ずカタカナで書きます!

さて、本題。「恥の文化」について。
ルース・ベネディクトという学者が「菊と刀」という著書の中で、
日本人の文化を「恥の文化」・欧米人の文化を「罪の文化」と定義付け
日本文化の独自性を主張しています。
この定義には賛否両論ありますが、核心を突いているような気がします。
「恥の文化」とは、人目(体裁)を気にする文化で、道徳の規準を
人目や体裁に置いているということです。
対して、「罪の文化」は、道徳規準を「神の目」に置いています。
この文化が生まれた背景には、宗教的な思想が大きく影響していると
思われますし、もちろん、それぞれ一長一短あると思います。
確かに、私たちは何かにつけて「人さまに恥ずかしくないのか?」と問われ
自身に問いかけ、判断の基準にしているのではないでしょうか。
長所としては、周囲に対する気遣いや心配り、謙虚さや協調性が生まれる事。
短所としては、主体性のなさ・信念のなさ(周りに流されやすい)。
個人の道徳心が他者により左右されてしまう点です。
そして、これもまた脈々と受け継がれている…。
若者たちよ!「やばくね?」って、何に対して「ヤバい」のでしょう。
ね?!

2011年9月10日土曜日

最大値と最小値【数学担当】

高校生の授業をしていて、二次関数の最大値・最小値のところをやりました。
何題も問題を解いていると、
いちいち「最大値」とか「最小値」とか記入するのが面倒くさいので
「最大値はMax」「最小値はmin」って省略して書けば?
と生徒さんに言いました。
すると「ちゃんと漢字で最大値って書かないとテストで×になる」というのです。
なんと、ナンセンスな話!!

夕食時に息子二人になんて書いている?と聞きました。
次男は「あー、うちも、そう書かないとだめだよ。自分も漢字で書いてる」と。
なに?最大値・最小値と記載するのは、もしや文科省の指定か?

長男は「どっちでもいいんじゃない?論点はそこではないから」
なになに?おもしろいじゃない…
「解答は、採点者に分かってもらえばいいわけで、
Maxと書いた時、採点者が最大値と理解しているのならOK。
問われているのは、最大値を求めることだから、
共通の認識の下で解答作成がされているのなら〇でしょ。」
「でも、Maxの意味がなにか共通の認識があると確証がない場合、
×になったとしても文句は言えないよね」

つまり、生徒さんの高校のあるいは息子の中学では
Maxは共通言語じゃないってこと。
通じないっていうことなので、×になっちゃうのね。
ん~、面倒くさい話だな。
「論点はそこじゃない!」と思うのだけれど…って教える私が言ったらまずいか…

2011年9月7日水曜日

「謙遜の文化②」【国語担当】

今週は…また違う文化について、書いてみようと
考えていたのですが、前回「コメント」を寄せて下さった方が
いらっしゃって…とても嬉しく、もう少し語りたくなりました。
が書いた例文のような話しは、まさに「団塊の世代」あたりで
…現代は「死語」になりつつあります。

「つまらないものですが…」などと言うと「つまらないもの
なんていらないわよ!」と言われかねませんし…
本当は厳選したお気に入りの品を手土産をとして持参したのだから、
そうはっきり言って良いはずでしょ?
逆に、「吹けば飛ぶような家ですよ。」なんて言われて
本当に吹けば飛ぶような家だったら、「とんでもない!」
と返すのは、返って、しらじらしく感じられるでしょうし。
コメントの「嫁は海外生活が長くて…」というのも
実際は謙遜の意味で使っているのですが、自慢(?!)とも
受け取れる言い回しですよね。

「謙遜」として使う言葉は、実際は謙遜などしていなくて
言葉だけの決まり文句でしかないようです。
あまりに露骨に使うと、謙遜=嫌み? 謙遜=さりげない自慢?
とも受け取られかねません。
ただ、処世術としては、間違いはないでしょうし、相手を傷つける
心配もないでしょう。日本人同士の社交的な潤滑油(?)のような
役割を担っているのではないでしょうか。
そして、形を変えながらも、「謙遜の文化」は脈々と受け継がれて
いるのではないかと思うのです。それは、前回、お話した
「あいまいな日本語」という形にも。根底には「へりくだる」と
いう観念が無意識に働いているのではないかと思うのです。
「拙宅」や「愚妻」という言葉を使わなくても、断定を避ける
表現「…的な」や語尾を上げる表現(例えば、「マジすごくね?」)にも
さりげなく「謙遜」の匂いがしませんか?
…そんな気がします。

2011年9月2日金曜日

英語と数学【数学担当】

ここ十日ばかりの間に、2度英語の先生に会いました。
最初に会ったのは、長男の友達のお母さんたち2人。
2人とも学生時代英語を専攻していて、現在一人は英会話スクールの先生、
もう一人は日本語教室の先生をしています。
彼女たちが言うには
「〇〇の時は◆◆、△△の時は☆☆。なのに、このときはどうして違うんですか?ってきかれちゃうと困るんだよね~。英語って、そんなに厳密なものじゃないから、パターンで決められないんだよ。」
ということ。

その数日後に会ったのは、私たちの仕事仲間の英語の先生。
「英語はツールだから、厳密にきちきちとやっていくものじゃないのよ。」
「数学は学問だからね。英語はそういうのとは、ちょっと違うと思う。」

偶然にも同じようなことを話していました。
私にとっては、ちょっと目からウロコのような話。
数学は、ひとつひとつ積み上げていくものだし、ある規則性があってそこから外れるものはほとんどない(例外はもちろんありますが)。
だから、教えている時も
「〇〇だから◆◆」ということを明確にします。

先の英語の先生。
「私は、間違えたところをわざわざ指摘したりしないのよ。
本人は間違えたことをわかっているんだもの。」
私は、はっきりと間違えたところを指摘します。
そこさえ間違わなければ、きちんと答えに辿り着けるから。

仕事を離れて話をしても穏やかな英語の先生。
一方私は理屈っぽい。
学問の本質によって個人の性格が形成された…と言い訳がしたいです。