前回の数学の「最大値・最小値」論点の違いを読んで。  いかにも日本らしい…これまた「日本の文化」ではあるまいか。
  欧米諸国であれば、ナンセンスなお話。
  しかしながら、日本では、よくあるお話。国語では…
  「分節の数を答えなさい」という問題。5個だったら、答えは「五」。
  親切な出題者は「漢数字で答えなさい」と書いてくれる。
  が、裏を返せば、「5」では、絶対「×」ってこと。
  ここで、「漢数字で」と書かれていなかったら、どうか?
  「5」でも「V」でも、出題者と回答者の答えは、内容的には
  同じ。しかしながら、国語だから、漢数字で書くのが常識…
  と言われれば×。っていうか、実際、かなりの確率で言われる!
  「フリガナ」と書いてあったら、カタカナで書く。
  「ふりがな」と書いてあったら、ひらがなで書く。
  「ソナえる」→カタカナを漢字に直しなさいという問題で
  「備える」と記入すると×。「備」しか書いてはいけない。
  まあ、考えようによっては理不尽な×です。
  社会も、固有名詞は漢字で書くのが必須。
  正確さを第一と考える国民性からでしょうか。
  で、理不尽な「×」を付けられた数々の経験から(?)、
  私的には、かなり「こだわり」ます。
  例えば、銀行口座の申し込み用紙…氏名にフリガナと
  書いてあれば、必ずカタカナで書きます!
  
さて、本題。「恥の文化」について。
  ルース・ベネディクトという学者が「菊と刀」という著書の中で、
  日本人の文化を「恥の文化」・欧米人の文化を「罪の文化」と定義付け
  日本文化の独自性を主張しています。
  この定義には賛否両論ありますが、核心を突いているような気がします。
  「恥の文化」とは、人目(体裁)を気にする文化で、道徳の規準を
  人目や体裁に置いているということです。
  対して、「罪の文化」は、道徳規準を「神の目」に置いています。
  この文化が生まれた背景には、宗教的な思想が大きく影響していると
  思われますし、もちろん、それぞれ一長一短あると思います。
  確かに、私たちは何かにつけて「人さまに恥ずかしくないのか?」と問われ
  自身に問いかけ、判断の基準にしているのではないでしょうか。
  長所としては、周囲に対する気遣いや心配り、謙虚さや協調性が生まれる事。
  短所としては、主体性のなさ・信念のなさ(周りに流されやすい)。
  個人の道徳心が他者により左右されてしまう点です。
  そして、これもまた脈々と受け継がれている…。
  若者たちよ!「やばくね?」って、何に対して「ヤバい」のでしょう。
  ね?!
0 件のコメント:
コメントを投稿