2011年9月14日水曜日

「日本の文化」【国語担当】

  前回の数学の「最大値・最小値」論点の違いを読んで。 いかにも日本らしい…これまた「日本の文化」ではあるまいか。
欧米諸国であれば、ナンセンスなお話。
しかしながら、日本では、よくあるお話。国語では…
「分節の数を答えなさい」という問題。5個だったら、答えは「五」。
親切な出題者は「漢数字で答えなさい」と書いてくれる。
が、裏を返せば、「5」では、絶対「×」ってこと。
ここで、「漢数字で」と書かれていなかったら、どうか?
5」でも「V」でも、出題者と回答者の答えは、内容的には
同じ。しかしながら、国語だから、漢数字で書くのが常識…
と言われれば×。っていうか、実際、かなりの確率で言われる!
「フリガナ」と書いてあったら、カタカナで書く。
「ふりがな」と書いてあったら、ひらがなで書く。
「ソナえる」→カタカナを漢字に直しなさいという問題で
「備える」と記入すると×。「備」しか書いてはいけない。
まあ、考えようによっては理不尽な×です。
社会も、固有名詞は漢字で書くのが必須。
正確さを第一と考える国民性からでしょうか。
で、理不尽な「×」を付けられた数々の経験から(?)、
私的には、かなり「こだわり」ます。
例えば、銀行口座の申し込み用紙…氏名にフリガナと
書いてあれば、必ずカタカナで書きます!

さて、本題。「恥の文化」について。
ルース・ベネディクトという学者が「菊と刀」という著書の中で、
日本人の文化を「恥の文化」・欧米人の文化を「罪の文化」と定義付け
日本文化の独自性を主張しています。
この定義には賛否両論ありますが、核心を突いているような気がします。
「恥の文化」とは、人目(体裁)を気にする文化で、道徳の規準を
人目や体裁に置いているということです。
対して、「罪の文化」は、道徳規準を「神の目」に置いています。
この文化が生まれた背景には、宗教的な思想が大きく影響していると
思われますし、もちろん、それぞれ一長一短あると思います。
確かに、私たちは何かにつけて「人さまに恥ずかしくないのか?」と問われ
自身に問いかけ、判断の基準にしているのではないでしょうか。
長所としては、周囲に対する気遣いや心配り、謙虚さや協調性が生まれる事。
短所としては、主体性のなさ・信念のなさ(周りに流されやすい)。
個人の道徳心が他者により左右されてしまう点です。
そして、これもまた脈々と受け継がれている…。
若者たちよ!「やばくね?」って、何に対して「ヤバい」のでしょう。
ね?!

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