2011年12月28日水曜日

習い性となる【国語担当】

「ナラい、セイとなる」と読みます。
習慣はやがて生まれつきの性格のようになるという意味です。
同義語は「染み付く」「刷り込まれる」「インプット」等。
福沢諭吉が『学問のすすめ』でこの慣用句を
引用しているのは余りにも有名です。
『常に人を恐れ人に諂う者はしだいにこれに慣れ、その面の皮、
鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、
人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。いわゆる、
「習い、性となる」とはこのことにて、慣れたることは
容易に改め難きものなり。』とあります。
福沢諭吉の主張の是非については、さておき…
自分においては、どうであろうかと考えました。
何度も書いていますが、私は商家(小さな!)の生まれです。
田舎ですから、家庭(住宅)=店舗だったわけです。
食事は家族一緒で、会話がはずみ、食後はテレビを
見ながらの団らん…などというものとは無縁でした。
居間は店舗につながっていましたので、「お客様に見られる」
という意識が常に働き、団らんの習慣はありませんでした。
もちろん、食事も急いでとり、交代でレジに立つ。
居間でテレビを見るのは閉店後のみ。もちろん、ごろ寝も
なし!それは、確かに私の性質の一部を形成しているなと
感じます。今でも、私は(店番もないのに)食事も早いし、
(お客もいないのに)テレビを見ながら、ごろごろしません。
見る…か、寝る…かです。子どもがリビングでごろごろしていると
イラっときます。そして、主人の実家に行くと、
この「習い性」が災いします。
主人の実家はサラリーマンの家庭ですので、皆でのんびり食事をし、
やたらとくつろぎます。何か手伝おうとすると義母に制止
されます。「いいのよ。実家に来たときくらいのんびりして。」と。
これが、なんとも手持ち無沙汰で、居心地の悪い時間です。
この瞬間に、私はいつもこの慣用句を思い出すというわけです。

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